午後の光が、バスルームの白いタイルに柔らかく溶け込んでいた。
窓は少しだけ開けられ、庭から流れ込む風が、湿り気を含んだ空気をゆっくりとかき混ぜている。
「オスカー、ちょっと来てくれ」
少し、不機嫌さを含んだ声。
扉の前に立つと、内側から自分でドアが開けられる。
「……はい、何か」
「絡んでしまったようだ。見てもらえないか」
そう言って示された首元。
左肩へ流された艶やかな金髪と、そこに引っかかる細い鎖。
無防備すぎる白い首筋が、午後の日差しを受けて淡く光っている。
(……本当に、この方は)
オスカーは一瞬だけ息を整え、表情を崩さずに近づいた。
「少々失礼します」
距離が詰まる。
呼吸の温度まで分かるほど近く。
「じっとしていてくださいね」
「ああ」
素直な返事。
疑うという選択肢が、最初から存在しない声。
指先で留め具に触れ、絡んだ髪をゆっくりとほどいていく。
細い鎖に集中しながらも、大きな鏡越しに映る二人の姿が視界に入り、どうしても意識が散る。
——近い。
近すぎて、時間の流れが遅く感じられる。
「……ジュリアス様」
「何だ」
「この後のご予定は」
把握しているが、一応確認する。
「晩餐会まで、休息だ」
「でしたら……その時間まで、ご一緒しても?」
「構わんが——」
「——外れましたよ」
ネックレスをそっと外し、ドレッサーの上に置く。
金属が触れ合う小さな音が、妙に大きく響いた。
「助かった。ありがとう、オスカー」
「少し、手こずっておられたようですね」
「いつもなら簡単なのだがな」
その言葉の途中で、オスカーの視線が首筋に留まる。
「……ここ」
指先が、かすかな赤みをなぞる。
「少し、跡がついています」
「そうか?」
「ええ。——もっと、よく見せてください」
そう言って、自然な流れで距離を詰め、そのまま頸にキスを落とす。
一瞬、ジュリアスの身体が強張り、すぐに力が抜けた。
「そなたは……まったく、油断も隙もないな……」
呆れた口調のはずなのに、声は低く、甘い。
「ネックレスにかこつけて、誘ってくださったのかと?」
「まさか?」
否定の言葉とは裏腹に、否定しきれていない間。
「——そなたこそ」
ジュリアスの腕が伸び、オスカーの首に回される。
逃がさないというより、離す気がない抱き方。
「跡にかこつけて、誘っているのだろう?」
「いいえ」
オスカーは微笑んだまま、否定する。
「キレイに治るおまじないです」
「残念だ。……乗ってやっても良かったのだが?」
「それは、俺のセリフですよ」
そのまま、今度はためらいなく唇を重ねる。
軽く触れるだけのはずが、離れる理由を失っていく。
午後の光はまだ高く、
晩餐会までは、十分すぎるほど時間があった。
——休息には、少しばかり向かない時間だが。
その夜。
宮殿の大広間は、幾重にも吊るされた光の結晶が淡く瞬き、
音楽と談笑が混じり合う祝宴の空気に満ちていた。
銀の食器が整然と並ぶ長卓の中央、
光の守護聖は今宵も揺るぎない存在感を放っている。
左隣の賓客に身体を向け、穏やかな声音で言葉を返す横顔。
所作は洗練され、微笑みは完璧。
誰の目にも非の打ちどころがない——はずだった。
ただ一人を除いて。
右隣に座る夢の守護聖は、
ふと視線を滑らせた先で、
その首筋に残るかすかな赤みに気づいた。
「……ふぅーん」
小さく、だが意味を孕んだ声。
ジュリアスが振り返る。
「どうかしたか」
向けられた問いは、心底不思議そうで、
そこに含みや警戒の色はまるでない。
「今夜の首座様は、ずいぶんと情熱的でいらっしゃるな〜って♡」
「そうか?」
首をかしげるだけの反応に、
夢の守護聖は楽しそうに口角を上げた。
そのやり取りを、
さらに右隣で聞いていた炎の守護聖は、
ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
その視線の動きも、
夢の守護聖は見逃さない。
ゆっくりと、意味ありげな目線が向けられる。
「あらあら〜」
「……何だ」
低く抑えた声。
「だって、あの首筋。
火傷じゃないわよね?
どう見ても“炎の守護聖案件”でしょ?」
一瞬、言葉が途切れる。
「……黙れ」
そう返しながらも、
ちょうど向かいの席の貴婦人と視線が合い、
即座に穏やかな微笑みを浮かべて応じる。
長年身についた社交の仮面が、
反射的に表情を覆った。
「否定しないんだ?」
「……うるさい」
そこへ、
何も知らぬ声が割り込む。
「そなたたち、楽しそうだが……何の話だ?」
不思議そうに、だが穏やかに問いかける光の守護聖。
夢の守護聖は、答えずに微笑むだけだった。
「うふふ。
後でゆっくり聞かせてもらうわ〜」
その言葉に、
炎の守護聖の内心で警鐘が鳴る。
続いて追い打ちのように。
「……どうした、オスカー。顔色が悪いな?」
向けられる、純粋な気遣いの視線。
「いえ……何でも」
即座にそう答え、視線を逸らす。
その瞬間、オスカーの頭の中ではすでに、
この晩餐会が終わった後、
夢の守護聖に捕まらずに済む最短かつ安全な退路が
真剣に計算され始めていた。
当の本人は何ひとつ悟らぬまま、
優雅に杯を手に取り、
祝宴の続きへと意識を戻しているというのに。
——その無自覚さこそが、
何よりも罪深い。