Falling Flowers II – 銀の花降る、月の夜

「ええっ、そんなことあるわけないじゃない!」

レイチェルは驚いて、手にしていたティーカップを落としそうになりながら、まじまじと目の前の少女を見つめた。
穏やかな午後の、いつものお茶の時間。

「だって、本当なの。 クラヴィス様ったら、とっても困ったようなお顔をされて・・・」
少女 - 栗色の髪の女王候補・アンジェリークの表情は真剣だった。
「クラヴィス様って、普段はちょっと怖くて近寄りにくい感じだけど、ホントは違うわよね。 だって、あんなにステキな香りを使われる方がおそばにいらっしゃるなんて」
「ちょ、ちょっとアンジェリーク。 アナタその方にお会いしたっていうの?」
アンジェリークはううん、と首を横に振ったが、その視線はさっきから宙を漂っている。 レイチェルは頭が痛くなる思いがした。

バラバラでとりとめのないアンジェリークの話をまとめると、どうやらこういうことらしい。

・・・・・昨日の夕方、アンジェリークは焼きたてのクッキーを差し入れようと、守護聖たちの館へ向かった。
毎回全員の館を回ることは出来ないので、一度に訪問できるのはせいぜい二、三人なのだが、どうしても苦手な守護聖の館からは少々足が遠のきがちになってしまう。
アンジェリークの場合、闇の守護聖クラヴィスがちょっと苦手だった。
そんなわけで、昨日は勇気を出して、一番最初にクラヴィスの館へ向かうことにしたが、あまり行ったことがないので途中で道に迷ってしまった。

あたりが暗くなってきたので、どうしようかと思っていたところ、ひんやりとした夕方の風に乗って、これまでに経験したこともないような優雅で柔らかな香りがどこからか漂ってきた。

何だろうと思い、少しずつ香りの強くなる方向へ歩いていったところ、突然開けた場所に出たと思ったら、後ろから急にクラヴィスに声をかけられたので、アンジェリークは飛び上がるほどびっくりした。

どうもそこはクラヴィス邸の裏庭の外れだったようで、本人にとりあえずクッキーを渡したら、何とか受け取ってもらうことができた。

夜道は危ないからと、クラヴィスが館の者にアンジェリークを寮まで送るように言って、館へ引き返そうとしたときに、アンジェリークは香りのことについて聞いてみたが、クラヴィスはちょっと困ったような顔で黙ったまま、何も答えてくれなかった。

その香りはクラヴィスの好む白檀とは全く違うので、彼が使っているものとは思えない。 でも、香りは間違いなくクラヴィスの館からのものだったし、あんなにフローラルで高貴で優雅な香りは他にはない。

ということはきっと、その香りを愛している誰か、おそらくは彼の恋人が、館を訪れていたに違いない・・・と、いうわけで、アンジェリークは先ほどから、クラヴィスに実はステキな恋人がいるのかもと主張しているのだった。

・・・どうしてそうなるのよ。
レイチェルにはアンジェリークの論理構造がまったく理解できなかった。
でも、とちょっと思い直す。
クラヴィス様のような方にとっては、香りは生活の一部みたいなものだから、少しでも気に入らないものは絶対にそばに置かないはず。
とすると、アンジェリークの言っていることも当たらずとも遠からずかも?

そうはいっても、さすがのレイチェルも相手がクラヴィスではちょっと恐れ多くて聞いてみるわけにもいかない。
でもとりあえずは、アンジェリークの言う「高貴でフローラルで優雅な」その香りには、ものすごく興味があった。

「さすがにご本人にお伺いするのはちょっと気がひけるけど・・・そんなにステキな香りなら、ワタシもぜひ経験してみたいなぁ~」
「じゃ、今日の夕方一緒に行ってみましょうよ! 守護聖様たちは会議があるとかで、今日は遅くまでお仕事らしいから、クラヴィス様はお屋敷にいらっしゃらないでしょうけど、もしかしたらその方にお会いできるかもしれないわ」
二人は夕方に公園の前で落ち合うことを約束して、残りのお茶を飲み干した。

「遅いよアンジェリーク。 早くしないと暗くなっちゃうよ!」
公園の入り口には、待ち合わせの時間よりかなり早く到着したレイチェルが一人ぶつぶつ文句を言っていた。
ティータイムの後、香りの件が気にかかって何も手がつかなかったレイチェルは、午後の予定を手っ取り早く片付け、さっさと公園へと向かったのだった。
「レイチェル~」
通りの向こうから、息せき切って走ってくるアンジェリーク。
「早かったのね。 もしかしたら、忙しいから止めたって言うかと思ってた」
「い、忙しいに決まってるじゃない。 アナタのためにわざわざ時間を作ってあげてるんだよ! さ、さっさと行きましょ」
レイチェルはアンジェリークの背中を押して歩き始めた。
でも行きたいっていったのはレイチェルじゃ・・・とアンジェリークは思ったが、もしかしたら、今日はあの美しい香りの主に会えるかもしれないと思うとワクワクして、そんなことはどうでもよくなった。

「おかしいわね、確かここを曲がったところあたりだと思ったんだけど・・・」
「アナタ、昨日来たばっかりなんでしょう? どこを通ったかもう覚えてないの?」
「うーん」
二人は、アンジェリークが昨日辿った道を通って闇の守護聖邸へ向かおうとしていたが、道案内役のアンジェリークがどうやらまた道に迷ってしまったらしい。
「だって、どの木もみんな似ているんですもの」
アンジェリークにはちっとも悪びれた様子もない。
森の中なんだから当たり前よっ!とレイチェルは怒りたくなったが、辺りもそろそろ暗くなってきたので、アンジェリークに頼らず自分で道を探し始めることにした。
「クラヴィス様のお屋敷はちょっとした丘の上だから、上っていく道に行ってみようか」
「さすがレイチェルね! そうそう、確かにちょっと上り坂だったような気がするわ!」
気がするだけじゃ困るのよとレイチェルが言いかけたそのとき。
一抹の少し冷たい夕暮れの風に、ほのかに甘い香りが混じっているのをレイチェルは感じとった。
「アンジェリーク、もしかしてこれが?」
アンジェリークも気づいたようだ。
「そう、この香りよ!どう、本当にうっとりする香りでしょう?」
レイチェルは立ち止まって、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
それはどこか控えめではあるけれど、確かに、アンジェリークの言うように優雅で高貴な、上品な香りだった。
この香りの主に会ってみたい。
少しずつ強くなる香りに導かれ、二人が歩みを早めると、やがてそれらしい場所に出た。
「よかったレイチェル、着いたみたい!」
「喜んでる場合じゃないよアンジェリーク・・・あそこに誰かいるわ」
レイチェルの指差すその先には、夕闇でよく見えないが、誰かが立ってこちらを見ている。
「・・・そこにいるのは誰だ?」
二人は抱き合って縮み上がった。
それは、「お仕事で遅いからいないはず」の、館の主その人だったからだ。

やましいことは何もなかったのだが、二人は見てはいけないものを見たような気がして、びっくりした子猫のように飛び上がり、一目散にその場を逃げ出した。
どこをどう走ったかよくわからないが、とりあえずは闇の守護聖の館が見えなくなるところまで来ると、二人ははあはあと息をきらせて立ち止まった。
「びっくりしたね~」
「本当よね~」
「でもよく考えたら、私たち逃げてくることもなかったよね?」
「そうね、でもやっぱりちょっと近寄りがたいし・・・」
「おや、アンジェリークにレイチェルじゃありませんか」
薄暗闇の中、突然後ろから声をかけられて二人はまた縮み上がったが、振り返るとそれは執務を終え、帰宅途中のルヴァだった。
「ル、ルヴァ様、こんばんわ。 今日は守護聖様方は会議って伺ってましたが?」
レイチェルは動揺を悟られまいと、逆にルヴァに問いかけた。
「あー、今日は珍しく早く終わりましてね~。 ジュリアスの機嫌がよかったからですかねー」
ルヴァはいつも通りのんびりとした調子だ。
「ところであなた方は、こんな時間にこんなところでどうしたのです?」
「えーと、私たちその・・・」
二人は何と言おうか迷ったが、レイチェルはルヴァなら何か知っているかと思い、事情をかいつまんで説明した。
話をうんうんと聞いていたルヴァは少し考えていたようだったが、やがてにっこり笑ってこう言った。
「なるほど、あなた方はその香りの主に会いたかったのですね? じゃ、これから一緒に会いにいきましょうか」
えっ?と二人は顔を見合わせた。
「じゃ、じゃあやっぱりクラヴィス様のお屋敷には・・・」
アンジェリークが息を飲んでルヴァに質問しようとすると、ルヴァは二人の肩を軽く叩いて言った。
「さあ。今宵は月もきれいですし、あなた方ならきっと大歓迎ですよ~」
ついてくるようにと促して、ルヴァは二人が今しがたやって来た、クラヴィスの館の方向へと歩き始めた。

二人の目の前を慣れた足取りで歩いていくルヴァは、道に迷うことなく森の中を抜けて、先ほどレイチェルとアンジェリークが逃げ出して来た場所へ難なくたどり着いた。
ルヴァは、勝手を知った様子で、ずんずんと裏庭を横切って歩いていく。
こうして歩いている間にも、少しずつ強くなる香り。
普段は知る由もない、闇の守護聖のプライベートに近づいている感じがして、アンジェリークもレイチェルも、さっきからずっとドキドキが止まらない。
三人は裏庭の反対側から、館の建物の端を回り、中庭へと出た。
香りが、いちだんと強くなる。
そして。

そこに二人が見たのは、大きな一本の木だった。
その枝という枝には、青白い月の光に照らされて、たくさんの小さな花が銀色に輝いている。
「・・・ルヴァ様、これは・・・」
二人が同時に何か言いかけようとしたとき、ふわりと風が吹き抜けた。
小さな銀の花たちが、風に乗ってはらはらと舞い散り、優雅な香りを放ちながら、辺りを銀色に染めてゆく。
「なんて、きれい・・・」
二人はため息交じりに声を上げた。
「一年に一度、この季節に花を咲かせるのですよ」
 ルヴァは、花たちの舞と、美しい香りにうっとりしている二人に語り始めた。
「この木は、かつてあなたたちと同じように女王候補だった二人のうちのひとりが、クラヴィスに贈ったものなのです」
二人は驚いてルヴァの顔を見上げた。
「彼女が幼い頃を過ごした家の裏手には、この木の林があったそうです。 この香りを大変に愛していた彼女は、女王候補としてここへやってくるときに、一本の小さな苗木を持ってきていました。 環境の変化のせいかどうも苗木に元気がないと、ある日私のところへ彼女が相談に来たときに聞いた話です」
その時を大切に思い出すように、ルヴァはゆっくりと言葉を続けた。
「何せ見たこともない木でしたから、文献を調べて、なんとか薬を探して渡し、様子を見るよう言いました。 しばらくすると、苗木が元気になったと彼女が嬉しそうに報告に来ました。そして女王選出がいよいよ近くなったある日」
ルヴァは木を見上げた。
「彼女は真剣な表情で、私にこの苗木を預かってほしいと言ってきたのです。そして万が一、自分が女王に選ばれることになったら、これをクラヴィスに贈ってほしい、と」
二人の女王候補は、固唾を飲んでルヴァの話に聞き入っていた。
「私はそのお願いを引き受けました。何かあれば私が面倒を見ましょうと言うと、彼女は安心したように笑顔でお礼を言って帰っていきました。
それから本当にいろいろなことがあって・・・この木が花をつけるようになるまでには、とても長い時間がかかったのですが、今ではこうして年に一度、見事な花を見せてくれるのですよ。この木の名前はギンモクセイ」
ルヴァは目を閉じて、その記憶を今一度確かめるように花の香りを吸い込むと、自分にしか聞こえない小さな声でそっとつぶやいた。
「そして花言葉は、『唯一の恋』」

月の光を浴びながら、音も立てず、銀の花ははらはらと風に散り続ける。
目の前の美しい光景と、ルヴァの語ったかつての女王候補の物語に、アンジェリークとレイチェルが言葉を失っていると、後ろからゆっくりと足音が近づいてきた。
「ルヴァ。 来ていたのか」
「ああクラヴィス、お邪魔しています。 花を見に来たのですよ~。 アンジェリークとレイチェルも一緒です」
クラヴィスがチラッと二人の方を眺めたので、二人は内心ドキドキしたが、何も言われなかったのでほっと安堵した。
「この香りに誘われましてね~ 」
ルヴァは優しい眼差しで木を見上げた。 同じように木を見上げたクラヴィスの深く紫がかった瞳は、何か遠い思い出を映しているように見えた。
また風が吹き、小さな銀の花たちのいくつかがクラヴィスの漆黒の髪に舞い降りて絡んだ。
「夜風は冷える。 よかったら茶でも飲んで温まっていくとよい」
クラヴィスは独り言のように言い、館のほうへ踵を返した。
「ありがとうございますクラヴィス。 ではお言葉に甘えるとしましょうかね~」
ルヴァは礼を言って、二人にそっと目配せしてクラヴィスに続く。
言葉を発することもなく、これからも変わらずここで咲き続けるだろう銀の花。
二人はもう一度木を振り返ってから、置いていかれては大変と、小さくなり始めたルヴァの後姿を慌てて追いかけた。

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