コンコン――
「……クラヴィス様。失礼いたします」
返事はない。
けれど、それがいつものことだと知っているリュミエールは、静かに扉を開けた。
部屋の奥、月明かりに照らされたクラヴィスは、ソファに身を沈め、長い指先で読書灯のスイッチを弄っていた。
「……また寝落ちされていたのですか?」
「寝ていたわけではない」
「では、読書中で?」
「していた……気がするな」
クラヴィスは視線を本から逸らさない。
けれどその声は、まるで「ここにいてもよい」とでも言うように、いつもよりわずかに柔らかかった。
リュミエールは無言で足を踏み入れ、テーブルに小さなトレイを置く。
カモミールティーと、ひと口サイズのチョコレート。
「……眠れぬ夜に、少しでも安らげばと。お好きでしたよね」
「……覚えていたのか」
「ええ。クラヴィス様が“チョコの苦みは心地よい”とおっしゃったことが、印象に残っておりまして」
クラヴィスは静かにカップを手に取り、口元へ運ぶ。
その仕草すらも、どこかしなやかで美しい。
「そなたは、よく人の言葉を覚えておるな」
「お世話役ですので。覚えておかねば」
「……それだけか?」
一瞬、沈黙。
クラヴィスはリュミエールの方を見ない。
ただ、カップを手にしたまま、ぽつりと問うように言った。
「そなたは、いつも静かに、そばにおるな。気配は薄くとも、確かに、そこに」
「それは……クラヴィス様にとって、不快な存在という意味でしょうか」
「……逆だ」
ようやく、クラヴィスがリュミエールへと視線を向ける。
その瞳は、いつものように翳ってはいなかった。
むしろ、月光のようなやわらかさが宿っていた。
「……そなたがいなくなると、厄介だ」
リュミエールはふっと微笑む。
それは声にせずとも、心から安らげる場所を見つけた人のような笑みだった。
「それは……名誉なことでございますね」
「……煩わしい」
「それも、慣れていただければ」
クラヴィスは、またソファに深く身を預けた。
けれどその横顔は、ほんの少し、綻んでいるように見えた。
「……おやすみなさいませ、クラヴィス様」
「……そなたもな。良い夢を」
灯りが静かに落ちる。
けれど、夜の静寂に、ぬくもりの残る余韻が長く続いていた。