聖殿のハーブガーデンに面した東屋は、午前の光を柔らかく溜め込んでいた。
湿った土と若葉の匂いが混じり、遠くでは執務開始を告げる職員たちの足音がかすかに響いている。
セイランは一人、長椅子に腰を下ろし、膝の上に本を開いていた。
文字を追ってはいたが、思考の半分は別のところにあった。
「こんなところで読書とは、珍しいじゃないか」
顔を上げると、東屋の柱越しにオスカーが立っていた。
軽装で、どこか肩の力が抜けた様子。
執務が始まったばかりの時間に、わざわざここへ来るあたりが、いかにも彼らしい。
「あなたこそ、こんな時間に出歩いていらっしゃるとは。よっぽどお暇と見える」
皮肉を含ませて言うと、オスカーは気にした様子もなく笑った。
「教官たちの様子を把握しておくのも俺の仕事でね。困ったことなどはないか」
「ええ。あなたのような方に付き纏われること以外には」
言い切っても、空気は険悪にならない。
オスカーはそれを分かっている。
「こっちも仕事だからそう邪険にするな。もっとも俺としては——」
オスカーの視線が、ふと真剣な色を帯びてセイランを捉えた。
「お前の感性には関心があるが。俺も少し、聖地に長くいすぎてきたからな」
その言葉に、セイランはわずかに目を細める。
権威に染まりきらない感覚。
それを、彼はオスカーの美点だと思っている。
本を閉じ、立ち上がる。
一歩、距離を詰めた、そのときだった。
——ああ。
視界の端。
小道の向こうから、こちらへ向かってくる人影。
セイランは、何気ない素振りのまま視線を戻し、思いついたように口を開いた。
「オスカー様。——失礼」
右手を伸ばし、彼の髪に触れる。
指先で、そっと。
——少しだけゆっくりと、長く。
「花びらが、髪に」
もちろん、そんなものは最初からついていない。
花びらは、先ほどまで自分の膝の上にあったもの。
オスカーは一瞬きょとんとし、それから気にした様子もなく頷く。
「そうか。ありがとう」
この距離でも、彼はまったく動じない。
だからこそ——面白い。
「オスカー」
背後から、低く澄んだ声。
振り向いたオスカーの向こうに、ジュリアスが立っていた。
端正な立ち姿。
視線はまっすぐだが、セイランは見逃さない。
——今の、ほんの一瞬。
ジュリアスの視線が、触れ合う距離にある二人を正確に捉えた。
ほんの刹那、感情の読めない紺碧の瞳が硬くなる。
そしてわずかに、空気が張り詰めた。
「おはようございます、ジュリアス様」
先にそう告げたのはセイランだった。
ちらりと、こちらを見るジュリアス。
だがその視線は、セイランではなく、オスカーの髪から、指先までをなぞるように通り過ぎた。
「ああ。いい朝だな」
声音は平静。
だが、完全ではない。
「何かご用事でしょうか」
オスカーが問う。
「急ぎ、確認したいことがあってそなたを探していた。
東屋の方で見かけたと聞いたのでな——ああ、セイラン」
一呼吸おくジュリアス。
「はい」
「女王試験への協力を感謝する。——できれば、候補たちにもう少し優しく接してもらえるとありがたいが?」
言葉は丁寧だ。
だが、先ほどまで存在していたはずの余白が、きれいに削ぎ落とされている。
必要な分だけ。
それ以上は、一切与えないという選択。
セイランは内心で、静かに笑った。
「決して失礼に扱った記憶はないのですが。
——覚えておきましょう」
それ以上、言葉は交わされなかった。
ジュリアスはオスカーに視線を戻し、短く用件を告げると、共に歩き去っていく。
その背を見送りながら、セイランは東屋の長椅子に腰を下ろした。
——なるほど。
思い返す。
髪に触れた、あの一瞬。
(……あれが、彼のジェラシーか)
抑えた。
だが、抑えきれなかった。
その痕跡が、あの視線と声音に、はっきり残っている。
思ったより、分かりやすい。
そして、思った以上に——人間的だった。
普段はあれほど自らを律している男が、
ああいう形で、ほんのわずかでも零してしまうほどの感情。
(ちゃんと、あるじゃないか)
口元が、自然と緩む。
面白くもないと思っていた聖地での毎日。
だが、どうやら退屈は、もう少し先送りにできそうだった。
ジュリアスは——
まだまだ、揶揄い甲斐がある。
執務室へ戻る途中、回廊は思いのほか静かだった。
朝の光はすでに高く、先ほどのハーブガーデンの気配も遠ざかっている。
「……オスカー」
少しだけ、呼び止める声音が低い。
「はい」
振り返った瞬間、距離が近いことに気づく。
ジュリアスは歩調を緩めただけだが、いつもより半歩ほど、オスカーの側に寄っていた。
「先ほどの用件だが」
淡々と切り出されるかと思いきや、言葉が一拍、途切れる。
「——今日は、そなたは私の補佐を優先してくれ」
命令口調ではない。
だが、相談とも違う。
「……珍しいですね」
思わず、そう口にしてから、オスカーは軽く肩をすくめた。
「もちろん構いませんが。何かございましたか」
「特に問題はない」
即答。
だが、視線は前を向いたまま、オスカーを見ない。
「ただ……今日は、そなたが必要だ」
必要。
その単語が、余計な修飾もなく落とされる。
オスカーは一瞬、言葉を失った。
(どうしたんだ……?)
驚きの方が先に立つ。
だが、その奥で、胸の奥が静かに熱を帯びるのを自覚していた。
「承知しました」
あえて、いつも通りに応じる。
「本日は終日、お側に」
ジュリアスは、わずかに息を吐いたようだった。
それ以上は何も言わない。
だが、歩調は揃ったまま、離れない。
——朝の東屋。
不意に、思い出す。
髪に触れられた、あの瞬間。
そして、その直後の、張り詰めた空気。
(……心当たりが、ないわけでもないな)
だが、オスカーは何も言わなかった。
理由を問うことも、確かめることも。
「どうしました?」
ふと足を止めたジュリアスに、穏やかに声をかける。
「……いや」
一瞬だけ、視線が交わる。
その瞳に見たのは、執務中には決して覗かせることのない色彩。
(……あなたは、本当に不器用すぎる)
オスカーは微かに笑みを浮かべ、再び歩き出す。
半歩、距離を保ったまま。
——今日は、思いっきり甘やかしてやろう。
今すぐここで腕を伸ばせたらいいのにと思いながら、黙って後に続いた。