あなたのための頁

帰りが遅くなった。

聖地の夜は静かで、石畳を歩く自分の足音だけが響く。
館に近づくにつれ、書斎の窓に灯りがついているのが見えた。

もちろん、予想通りの光景だった。

扉を開けると、ランプの明かりの中で、分厚い本に目を落としている。
机の端には読みかけの本が何冊か積み上げられ、傍らの茶は冷えかけているが、本人はまったく気にした様子がない。
ページをゆっくりめくる手だけが、静かに動いている。

「あ~、ロザリア。お疲れさまです~。今日は遅かったですねぇ」

いつものとおり、声音は穏やか。
来たことをごく自然に歓迎しているのが伝わってくる。

「今お茶を淹れますね~。今日はちょうどいい茶葉があるんですよ。南の星域から手に入れたもので、このあたりでは普通、流通しないはずなんですが……」

立ち上がりながら、嬉しそうに話し始める。

知的好奇心に火がつくと、この人は時間を忘れる。気がつけば、茶葉の交易路の話から古代の香辛料の記録にまで飛んでいることも珍しくない。

出された茶を一口含む。深くて落ち着いた香り。確かに、素晴らしかった。

この人は、様々なことを知っている。茶葉の産地のことも、古い遺跡のことも、宇宙の成り立ちのことも。

女王候補だったあの頃も——答えを見つけられずにいたロザリアに、いつも静かに、ちょうどいい言葉を示してくれた。
それは指示ではなかった。地の守護聖らしく、自分で辿り着けるように、緩やかに。

しばらく他愛ない話をした後、ルヴァは「少しいいですか~、ここだけ読み終えたいので」と言って再び本へ戻り、ロザリアは自分の報告書に目を通し始めた。

書斎は静かだった。

ページをめくる音。外で揺れる木の葉の音。遠くで誰かが通り過ぎる足音。
それだけが時折、静寂を破る。

何の不満もない夜だった。

ルヴァが想いを伝えてくれたあの日のことを、今でもはっきりと覚えている。
不器用で、回りくどくて、でも確かに伝わった。
あのときは、本当に嬉しかった。

でも——それからが、困ったもので。

恋人同士になったからには、もう少し何かが変わると思っていた。
手を取るとか、帰り際に引き止めるとか——そういう、わかりやすい何かが。

変わったのは、ルヴァの館を訪ねる理由が増えたことだけ。

いや、それも違う。以前から用もないのに来ていたのだから。

報告書に目を落としたまま、小さくため息をついた。
こうして穏やかに過ごせるだけで、十分なはずなのに。

それに——と思う。

尊敬している相手に、もっとこうしてほしいなどと思うのは、少し身の程を知らないような気がしていた。
女王候補の頃から、この人の前では自分がまだ何も知らないと思い知らされてきた。
今だって、そうかもしれない。

ページをめくる音が止まった。

顔を上げると、ルヴァが本を閉じて、こちらを見ていた。
いつもの穏やかな目。でも今夜は、何か——測るような間がある。

「ロザリア」

「何でしょう」

「……もしかしたら、なのですが」

言葉を選んでいるような、間。

「私たちの関係が、何か……少し、物足りなく感じているのではないか、と思いまして」

一拍の沈黙。

「……気づいて、いらしたのですか」

恥ずかしさが先に来た。顔に出ていたのかと思うと、少し居心地が悪い。

「気づいていたというよりも……何となく、ずっと前から、そんな気がしていたといいますか」

ずっと前から。何となく。
恨めしいような、可笑しいような。

「ではどうして——」

「どうすればよいか、考えていましてね~。少し時間がかかってしまいました」

少し。

この人の「少し」は、いつも常人とは根本的にずれている。

「……その間も、気にかけてくださっていたのですか」

「それはもう。毎日」

迷いなく、でも淡々と。

ルヴァは手元の本を、ゆっくりと卓上に置いた。

ロザリアは目を見張った。

付箋が、貼られている。びっしりと。何色にも分けられ、ページの端から端まで。小さな走り書きも添えてある。

その横に、もう一冊。こちらにも。
さらにもう一冊。

「これ……」

「ここ数週間で読んでいたもので~。正確に言うと、あなたのことを考えながら、ぴったりの言葉を探していたんです」

数週間。三冊。この付箋の量。
まるで研究資料のようだと思った。
ただ一つだけ、普通の研究とは違うことがある——全部、自分のためのものだということ。

「いくつか、聞いてもらえますか」

ルヴァが一冊目の付箋を開いた。

「これは、ある古い星域で伝わっている詩です。直訳すると少し固いのですが——」

『愛するとは、その人の沈黙を知ることだ。言葉よりも先に、息の変わり目を知ることだ。』

静かに読み上げる声が、書斎に落ちた。

「あなたが疲れている日は、扉の開け方が少しだけ違うんですよ~。今日はゆっくりだったので、お茶を濃いめに淹れました」

どうやら、見抜かれていたのは――こちらの方だった。

別の付箋を開く。

「こちらは哲学書の一節で——」

『傍にいることの意味に、証明はない。ただそこにあるものが、すでに答えなのだ。』

「少し、難解ですかねぇ。でも私にはこれが一番しっくりきました」

それから、しばらく間を置いた。
本を閉じた。

少し考えるように、静かな間があって——
それから、小さな手帳を開いた。

「最後のは……私が書いたもので」

手帳のページには、ぎっしりと文字が並んでいた。
何度も書き直した跡。消した跡。横に別の候補が書き足されている。

「あなたのことを、毎日考えています。執務を終えて帰ってくる時の声のことを。お茶が少し冷めてから飲む癖のことを。難しい問題に黙って向き合う時の、あの横顔のことを」

淡々と。いつものゆったりとした声で。

「うまく伝えることが、私にはまだ難しいのですが。あなたのことが、いつも大切です」

手帳を、閉じた。

沈黙があった。

この人は、ずっと考えていたのだ。自分のことを。自分が気づかないほど静かに、丁寧に。
恋人らしいことを、何もしてくれないと思っていた。

けれど違う。

この人は最初から——自分よりずっと深く、この関係のことを考えていた。

ようやく声に出たのは——

「……三冊、全部お読みになったのですか」

「ええ、実はもう少しあったんですが。あまり多くても重くなるかと思いましてね~」

まだ、あるのですか。

「古文書室にも?」

「ええ。ジュリアスに頼んで許可をもらいまして。一応」

一応。

何冊の本を読み、何日かけて言葉を選び、何度書き直して——この人は「一応」で済ませてしまう。

「……ルヴァ様」

「はい?」

「あなたは本当に——」

言いかけて、やめた。代わりに、少し笑った。

笑ったロザリアを見て、ルヴァが安心したように息をついた。

「あ~……よかった」

「何がでしょう」

「怒られるかと思っていたので」

「怒る? わたくしが?」

「遅すぎるって」

その声が——いつもより、少しだけ早かった。

いつも穏やかで、のんびりで、何ひとつ慌てないこの人が。

ほんの少しだけテンポを崩した、その一瞬。

それがどれほどのことか、きっと他の誰にも分からない。

「……遅すぎます」

「すみません~」

「でも」

冷めかけたお茶を、一口。

「……十分、届きましたわ。それに——」

ちょっと間を置いて。

「少し、悔しいくらいに」

ルヴァは何も言わなかった。ただ穏やかに笑って、また本を開いた。

けれどページは、しばらくめくられなかった。

静かな夜が続いていく。

本のページをめくる音と、時おり交わす言葉だけがある夜。

同じようで、少しだけ違う夜が。