軽やかな定跡

涼やかな雨の降る週末の午後、光の守護聖の館。

二人の前にはチェス盤と、几帳面な文字で埋め尽くされた膨大なメモ。

ジュリアスが深い思考の底に沈む横で、オスカーが静かに紙束をめくる。
雨音は、定跡研究に最も適した背景だった。

ジュリアスが指先でナイトを軽く弾きながら、抑えた声で言う。

「……だから、この局面では〈b5〉の方が自然だ。リスクはあるが理論的には最善手に近い」

オスカーは腕を組み、ゆっくりと首を傾ける。

「この局面でb5ですか?……正直、俺には悪手に見えますが」

「悪手ではない。相手の読みをずらすには有効だ」

「しかし、通常のラインを捨てる必要は──」

ジュリアスの長いまつげがわずかに揺れる。

「捨てるとは言っていない。選択肢の幅を──」

「……ですが、“この局面に限っては”リスクが大きすぎます」

ジュリアスの訝しげな瞳。

「……そなたは、本当に頑固だな」

「……ええ。頑固はどちらでしょうね」

空気がぴんと張る。
互いの呼吸の温度がわずかに上がり、盤上の静けさだけが残った。

ジュリアスは視線を落とし、メモを一枚めくって小さく息を吐く。

「……もういい。続ける。私が詰めよう」

そのどこか拗ねた声音に、オスカーは返事をしようとして ——
ふいに口元を押さえて吹き出す。

「何がおかしい」

「……失礼。拗ねたあなたが、あまりに可愛らしくて」

「可愛いは余計だ」

即答。
眉間を寄せて睨むが、ほんの僅かに耳が熱い。

「…ましてや、拗ねてなど」

オスカーは肩をすくめ、やや声を落とす。

「では、言い換えましょうか。
少しだけ意地を張っておられる時のあなたは……魅力的だ」

ジュリアスは一拍置いた後、息を小さく吐く。

「……どちらにしろ余計だな」

オスカーの目元がほころぶ。

「余計かどうかはともかく……
その表情を見せていただけるなら、言った甲斐があるというものです」

ジュリアスはやれやれと言いたげにナイトを取って盤上へ戻しつつ、軽く視線をそらす。

「……研究に戻るぞ。そなたの口説き文句には付き合いきれん」

「では、おとなしくしていましょう」

そう言ってオスカーは立ち上がり、
何のためらいもなくジュリアスの肩を後ろから抱え込むように包んだ。

ジュリアスがわずかに身を固くする。

「……オスカー。今は盤面だと言っている」

「ええ。ですから、続けてください。
ここでおとなしく見ていることにしますーーあなたを」

耳元に落ちる囁きに、ジュリアスの呼吸がほんの一瞬だけ乱れる。
けれど彼はすぐ平静を装い、わざとらしく言い放つ。

「そなたの妨害には屈しないぞ?」

「妨害とは心外な。応援ですよ」

「….勝手にしろ」

息のかかるほどの距離。
互いに変な意地を張ったまま、柔らかな沈黙と雨音がふたりの間に落ちる。

穏やかで、どこか甘い二人の軽やかな定跡。