キスすらしていないのに

大評議会の休憩時間。
高い天井に声が反響し、議場は一時的なざわめきに包まれていた。
議員や守護聖たちが席を立ち、書類を手に談笑したり、次の議題について低い声で意見を交わしたりしている。

ジュリアスは席を離れず、机上に広げた議案書に視線を落としていた。
休憩といっても、彼にとっては思考を整理するための時間に過ぎない。
細く整った指が紙を押さえ、次の項目へと目を走らせている。

その背後から、静かな足音が近づいた。

「ジュリアス様、お疲れさまです」

低く、よく通る声。
顔を上げると、そこに立っていたのはオスカーだった。

「ああ、そなたもな」

短く応じ、ジュリアスは再び書類へ視線を戻す。

「次の議題は、少々長引きそうですね」

「うむ」

素っ気ない返答。

それでもオスカーは一歩も引かず、むしろ距離を詰めた。
周囲のざわめきに紛れるように、低く言う。

「そのまま、書類を見ていてください」

不意に言われ、ジュリアスの指が止まった。

「……?」

疑問を含んだ声を出しかけた、その瞬間だった。

「――今すぐ、キスしたい」

あまりにも唐突で、あまりにも私的な言葉。

だが声量は抑えられ、周囲には雑談と椅子の軋む音しか届いていない。

ジュリアスは、書類から目を離せなかった。
離せなかった、というより――離してはいけない気がした。

思考が一瞬、完全に停止する。
耳まで熱が上がり、血の気が一気に顔へ集まるのが自分でもわかる。
呼吸の間隔すら、どこかおかしい。

オスカーは何もしない。触れもしない。
ただ、いつも通りの距離で、いつも通りの姿勢で立っている。

――なのに。

周りのざわめきすら遠のき、言葉ひとつも返せないほどに、その場から動けなかった。

―――

少し離れた場所から、その様子を見ていたランディが首を傾げる。

「ジュリアス様、なんだか顔が赤いみたいだけど……熱でもあるのかな?」

心配そうな声。

それを聞いて、隣にいたオリヴィエがちらりと視線を投げた。
一瞬で状況を把握し、口角を上げる。

「……あれは相当、重症だね」

「えっ?」

ランディが驚いて目を丸くする。

「でもね」

オリヴィエは肩をすくめ、楽しそうに微笑んだ。

「心配の必要なんか、これっぽっちもないよ。
…まったく。こんなところで何バカやってんのかねェ、アイツは」

議場には、休憩終了を告げる合図が鳴り響く。
それでも、ジュリアスの耳の赤みが引くことはしばらくなかった。