薬指にキス

クラヴィス邸に仕えていた侍女のひとりが、結婚を理由に職を辞すという。

挨拶に訪れた彼女は、終始落ち着いた微笑みを湛えていた。
若いながらも分別があり、言葉の選び方も慎重で、身のこなしも静か。
クラヴィスが評価していた理由を、リュミエールはよく理解していた。

「そなたに、闇の祝福を」

そう告げたとき、クラヴィスの声はいつもよりわずかに柔らかかった。
祝福の言葉は簡潔で、余計な感情を含ませない。
それでも彼女の表情は一瞬でほどけ、深く頭を下げた。

その左手の薬指に、控えめな指輪が光っていた。
華美ではないが、丁寧に磨かれた、小さな石。
差し込む光を受けて、静かに輝いている。

リュミエールは、ほんの一瞬だけ目を奪われた。

――少しだけ、羨ましい。

自覚した途端、その感情は胸の奥に沈められた。
考えるべきではない。口にするなど、なおさら。

その夜。

館は静まり返り、灯りも最小限に落とされている。
長椅子に身を預けたクラヴィスは、何をするでもなく天井を仰いでいた。

闇に溶け込む黒衣と、長く伸びた肢体。
呼吸は穏やかで、眠っているようにも見える。

リュミエールは音を立てぬよう近づき、テーブルにハーブティーを置いた。
湯気がかすかに立ち昇り、ほのかな香りが夜気に混じる。

「……今日は、素敵な瞬間を拝見いたしました」

返事はない。
だが、それを待つ必要はなかった。

「あなたが祝福をお授けになったとき……彼女は、本当に幸せそうでした」

しばらくの沈黙のあと、低い声が落ちる。

「何のことだ」

視線は天井のまま。
けれど、その声音は起きている者のものだった。

「本日、退職の挨拶にいらした侍女のことです」

クラヴィスは小さく息を吐いた。
そして、何気ない仕草で腕を伸ばす。

――来い。

言葉を伴わない合図。
リュミエールは一瞬ためらい、それから静かに近づいた。

クラヴィスの手が、彼の手首をとらえる。
指は細く、冷たい。
引き寄せられるまま、長椅子の縁に腰を下ろした。

「彼女を見守るそなたの瞳は、優しかったが――」

そこで、ようやくクラヴィスが顔を向ける。
黒紫の瞳が、逃げ場なく捉えてくる。

「果たして、それだけだったか?」

息が詰まる。

喉が動き、言葉になりかけたものが、音を持たずに消える。

「……それは……」

否定できない。
だが、肯定することもできない。

クラヴィスの指先に、わずかな力がこもる。
逃がさぬように――あるいは、確かめるように。

沈黙のまま、彼はリュミエールの手を取り直した。
ゆっくりと、薬指を持ち上げる。

そして、そこに――唇を落とす。

柔らかく、短い接触。
祝福にも似て、しかし決定的に異なる温度。

「……クラヴィス様……」

名を呼ぶ声は、かすれていた。

唇が離れ、クラヴィスは何事もなかったかのように手を放す。
視線はすでに逸らされていた。

「……そなたの正直さは、悪くない」

それ以上は、何も言わない。

答えも、慰めも、約束もない。
ただ、言葉になる前に閉じられた感情だけが、静かに残る。

リュミエールは俯き、自分の薬指を見つめた。
そこには何もない。
指輪も、痕も――何ひとつ。

それでも、確かに封じられたものがあった。

夜は、何事もなかったかのように、静かに更けていく。