まだ朝もやの立ちこめる、ひんやりと澄み切った空気の中を、規則正しい蹄の音が切り裂いていく。
湿り気を帯びた土の匂いと、森から流れ込む冷たい風。
空は白み始めたばかりで、世界はまだ完全に目覚めてはいなかった。
オスカーは馬上で、自然と口元を緩めていた。
理由は分からない。
ただ、胸の奥で何かが静かに弾んでいた。
=*=*=*=*=*=
金の曜日、夕刻。
光の守護聖の執務室には、すでに日が傾き始めた柔らかな光が差し込んでいた。
分厚い書類の束が片づけられ、重たい扉が閉まる。
その音が消えた瞬間、張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。
「……ようやく、お会いできました」
オスカーの低い声と同時に、腕の中に確かな温もりが戻ってくる。
久しぶりの感触だった。
「ああ、そうだな」
短く応じるジュリアスの声は、どこか安堵を含んでいる。
互いに離れていた時間の長さを、言葉にする必要はなかった。
視線が合う。
深い紺碧の瞳が、わずかに細められた。
「少し、忙し過ぎたな。お互いに」
「……ええ」
それ以上は言わない。
オスカーは静かに抱き寄せ、相手の髪に顔を埋めた。
「……朝まで、ご一緒しても?」
囁きは、冗談めかしながらも本気を隠さない。
だが、返ってきた答えは意外なものだった。
「……今夜は、やめておこう」
オスカーはわずかに距離を取り、覗き込む。
「何か、ご用事が?」
一瞬の沈黙。
そして、くすりと微かな笑み。
「ああ。実はな――」
ジュリアスは、楽しげな色を瞳に浮かべて語り始めた。
「聖地の外れに、先代の光の守護聖が思索のために建てさせた小さな小屋がある。古びてはいるが、深い森と渓流に囲まれた美しい場所だ」
ゆったりとした声が、情景を紡いでいく。
「釣りをして……夕食には、取れたての魚を焼くのもいいだろう。馬を走らせても、たっぷり半日はかかる」
オスカーは、知らず息を呑んでいた。
「戻りは日の曜日になるが――どうだ、オスカー。私の気晴らしに、付き合ってくれるか」
答えなど、決まっている。
「ええ、もちろん。喜んで」
満足そうに頷くと、ジュリアスはすっと腕を解いた。
「よろしい。明朝は早い。今日はここまでにして、備えるとしよう」
自然な仕草で距離を保つ背中を見送りながら、オスカーは小さく息をついた。
少しだけ、うまくかわされた気もする。
だが同時に、胸の奥で高揚が広がっていくのを抑えられなかった。
=*=*=*=*=*=
ジュリアスの私邸に近づく。
約束の時刻より、だいぶ早い。
それでもオスカーは迷わず裏門へ回り、厩舎へと向かった。
予想は当たっていた。
お気に入りの乗馬服に身を包み、金の髪をきゅっとまとめたジュリアスが、すでにそこにいた。
愛馬の手綱を取り、落ち着いた手つきで準備を整えている。
「おはようございます、ジュリアス様」
振り返ったその顔に、朝の光が差す。
「ああ、オスカー。おはよう。……アグネシカも、久しぶりだな」
嬉しそうに嘶き、頬ずりする馬に、ジュリアスは目を細めた。
「こちらの準備も整っている。そなたとアグネシカがよければ、いつでも――」
言葉は、途中で途切れた。
オスカーが一歩踏み込み、そのまま唇を重ねたからだ。
不意を突かれ、ジュリアスの身体が一瞬こわばる。
だが、すぐに力が抜け、静かに応じる温もりが返ってくる。
短く、穏やかなキス。
互いの距離が、ようやく戻った証。
これは――
特別な週末の、始まりの合図。
朝の空気が、わずかに動いた。
蹄が鳴り、馬たちが歩き出す。
森へと続く道は、静かに二人を迎え入れていた。