一日の執務を終え、帰途に就こうかと身支度を始めると、コンコンと扉を叩く軽快な音が広い室内に響いた。
返事もしないうちに、顔を覗かせたのは緑の守護聖。
珍しい酒が手に入ったから、帰りにウチにちょっと寄っていけと言う。
カティスの館は自邸とは反対方向にあったから、どうしようかと返事を渋っていたら、ジュリアスも呼んであるから早く来い、と彼は一方的に喋って、口笛を吹きつつ立ち去った。
何なんだ、いったい。
オスカーはため息をつきながらも、酒に興味はあったので、帰りに寄り道をすることにした。
緑の館に到着すると、ワーカホリックな光の守護聖は珍しくもすでにそこにいて、見事な庭園が見渡せるテラスの特等席に陣取り、テーブルの上に置かれた明るい琥珀色に透き通るビンを興味津々に眺めているところだった。
「この酒は『ケイカチンシュ』といって、金色の花の花びらとつぼみを、極上の白ワインに漬けて熟成させたものだそうだ」
カティスは小さなグラスをジュリアスとオスカーに手渡しながら話し始めた。
「原産の地では、絶世の美女と称えられた姫君がこよなく愛した酒という」
ビンを開けると、辺りに気品のある甘い香りが漂う。
「ほう、いかにも美しい姫君に相応しい、何とも芳しい香りだな。 これがその金色の花の香りなのか」
ジュリアスの問いに、ああ、とカティスはうなずいた。
「緑の守護聖である俺ですら、この花を直接見たことは一度もないんだが・・・」
杯に少しずつ、キラキラと金色にも見える液体を注ぎながらカティスは言葉を続ける。
「何でも小さな、愛らしい宝石のような花が、大きな木に無数に咲くそうだ。 天から授かった花という伝説もある。 これだけの香りを放つ花だ。咲き誇るさまは、さぞかし華やかで美しいだろうな」
三人はグラスを合わせた。
香りたつその酒は、オスカーの好みには少し甘く過ぎたが、口当たりのよさとその高貴な香りに心地よく酔えそうだった。
隣を見れば、ジュリアスも大そう気に入ったようで、上機嫌でカティスと談笑している。
甘く芳しい香りで人々を酔わせる、伝説の金色の花。
見てみたい、とオスカーは思った。
この香りは、どこかジュリアスを思い起こさせる。
高貴で、華やかで、限りなく優雅で。
でも同時に力強い、人々を引き付けてやまない香り。
「この花をぜひとも見てみたいものだな、オスカー」
ジュリアスに突然話しかけられて、オスカーは酒に少し咽ながら、ええ、と答えた。
「俺も見たいのはやまやまなんだが、どうも環境になかなか適応しないらしくてな。ごく一部の惑星でしか育たないそうだ」
カティスは二杯目の酒をそれぞれに注ぎ分けた。
「しかも、花が咲くのは一年に一度、数日だけ。 デリケートでほんの少しの雨や風にも弱いときてる。もし見られたなら、かなりの幸運に感謝するんだな」
カティスの話にちょっと残念そうな顔をしながらも、ではかなりの幸運を祈ることにしようかとジュリアスは笑い、一同はまた一口酒を啜って、貴重なその香りをしばし堪能した。
結局その夜は、口当たりのよいその酒にジュリアスがだいぶ酔ってしまったものだから、オスカーが光の館まで彼を送っていくことになった。
気持ちよさそうにほろ酔い加減のジュリアスを先に迎えの馬車へ乗せ、礼を言おうと玄関へ戻ったオスカーにカティスが言った。
「あの花だがな、名前をオスマンサスというんだ。 どこかで見つけたら、ぜひジュリアスに見せてやってくれ」
オスカーがああ、と生返事をして立ち去ろうとすると、カティスはさらに続けた。
「それからこれも覚えておくといい。 こいつの花言葉だが-」
*****
この香りは - まさか。
視察先の惑星にひとり降り立ったオスカーは、風が運んできた微かなその香りに遠い記憶を呼び起こされた。
名前などとうに忘れてしまったが ― 間違いはない。
挨拶もそこそこに、オスカーは出迎えの担当者に、金色の花が咲いているのかと尋ねた。
マジメそうな担当者は、オスカーの問いに怪訝そうな顔をしたが、この香りのことだというと、ケイカのことですか?と聞き返してきた。
タンケイとか、キンモクセイという地方もあるが、当地ではケイカと呼ぶのだという。
そういえば、カティスが出してくれたあの酒の名前に、「ケイカ」という音がついていたような気がする。
ああそうだとオスカーが返すと、彼はここから少し離れた丘の中腹にケイカの林があると答え、あちらです、とその方向を指差した。
オスカーが興味があるらしいのを察してか、ちょうど今が花の時期ですが、と彼は言って一呼吸置き、明日の明け方には嵐が来るので残念ながら散ってしまうでしょう、と申し訳なさそうに付け加えた。
空を見上げれば、確かに雲の流れが異様に速く感じられる。
オスカーは落胆の表情を隠せなかった。
何故なら、分刻みのスケジュールに追われるジュリアスが、明朝早くから行われる会議に出席するため、これから数時間後の深夜に当地に到着し、オスカーに合流することになっていたからだった。
会議が終わるころまでに、花は待ってくれそうになかった。
オスカーが会議のための事前打ち合わせをこなしていた数時間に、風はすっかりその方向を変えてしまい、深夜にジュリアスが到着した頃には、辺りにケイカの香りは全く感じられなくなっていた。
休む暇もなくオスカーから簡潔に打ち合わせの報告を受けたジュリアスは、少々疲れた様子で、明日は早いので休むようにとオスカーに言い渡し、自分はまだ準備が残っているからと早々に宿泊先の自室に引き上げていった。
さっきのご様子では、とても花の話なんか持ち出せる状況ではなかったが、とオスカーは思った。
どっちにしろ、明日の朝には嵐が来て、花も香りも跡形もなく消えてしまうのだ。
あれもずいぶんと前のことだし、ジュリアス様ももうお忘れになっているかもしれないしな。
俺も早く休んで、明日の仕事に備えるとするか...
数時間眠って、オスカーはふと目が覚めた。
窓の外を見ると、明け方に近いのかぼんやりと空の一部が明るくなりかけている。
まだ嵐は来ていないようだ。
オスカーは飛び起きると、手早く身支度を整え、ジュリアスの部屋のドアを叩いた。
何事だ、と眉を寄せて不機嫌に現れたジュリアスに、一緒に来てくれるよう頼みこむ。
後でお叱りはいくらでも受けますから、と何とかなだめて、ジュリアスを半ば強引に外へ連れ出した。
多く湿気を含んではいるが、明け方の空気は寝不足気味の体に心地よい。 しかし、理由もわからず突然睡眠を妨害されたジュリアスはかなり憮然とした様子で、オスカーは内心気が気ではない。
そのときふと、風向きが変わった。
風に乗り、甘い香りがふわりと辺りを包みこむ。
遠い記憶のどこかに微かに、でもくっきりと刻み込まれた・・・
「・・・この香りは?」
ジュリアスが突然立ち止まり、前を歩くオスカーを呼びとめる。
気づかれましたか、とオスカーは振り向いた。
「昔カティスの言っていた・・・あの花、なのだな?」
ええ、とうなずき、嵐がすぐにも来るだろうことを伝えると、ジュリアスは一言、急ぐぞとだけ返して、颯と足を早めた。
風が少し強くなってきた。
空を仰ぐと、雨が近そうだ。
間に合えばいいが、とオスカーは思った。
辺りがずいぶんと明るくなったころ、金色の香りが一段と強くなって、二人は目指す林が近いのを感じた。
急激な上りを越えた、その先に。
「ジュリアス様、これは-」
丘の中腹、なだらかな斜面いっぱいに広がった、背の高い木々。
その深いオリーブ色の枝葉に無数に咲く、金の小さな花たち-。
花たちは、風に揺られ舞い上がり、それぞれが気紛れな方向へはらはらと散っている。
あの、昔の記憶と寸分違わない、高貴で甘い香りを強く放ちながら。
すぐに嵐がやってくるというのに、暗灰色に立ち込める厚い雲のところどころから白い朝の光が細く差し込み、舞い散る金の花たちを照らしていた。
花たちはきらきらと輝き、まるで風が光っているようかのようにも見える。
天から授かったという、伝説の金の花。
オスカーは、カティスの言葉を思い出していた。
『・・・さぞかし華やかで美しいだろうな』
ああ、カティス。 その通りだ。
オスカーの目の前には、甘く匂いたつ香気の中、光と風に舞う金の花たち。
そして、吹き抜ける風に無造作に靡かせた自らの金の髪を、無邪気に花たちと遊ばせ目を細めるジュリアスの姿があった。
「こんなに小さな花が、これだけの香気を放つとは・・・」
手のひらに花たちを乗せ、ジュリアスは感嘆の声を上げている。
そんなジュリアスの、繊細な花の絡んだ滑らかな黄金色のひと房を優しく手ですくって弄びながら、オスカーは言った。
「・・・あの夜カティスと約束したんです。 もし俺がどこかでこの花を見つけたら、あなたにお見せるようにと」
そうだったか、とジュリアスはオスカーを振り返り、懐かしそうな笑顔を浮かべた。
*****
「- 高潔、陶酔・・・」
「はぁ?」
「黙って聞け。真実の愛」
「・・・」
「変わらぬ魅力。 それから・・・あなたは気高く美しい」
「・・・何が言いたい」
「いいから覚えておけ。 ま、いつか役に立つこともあるだろうさ」
*****
この花の花言葉をご存知ですかと言いかけて、オスカーは思いとどまった。
あなたは知るはずもない。
それを聞かされたとき、彼に自分の想いを見透かされている気がして、今にも心臓が止まるかと思ったこと。
あなたは知るはずがない。
この惑星に降り立った途端、この花の甘い香りに、遠く昔のその時の感情が閃光のように鮮やかに蘇って、胸が締め付けられる思いがしたこと。
今の俺なら分かる。
なぜ、カティスが俺に、この花のことを伝えたか。
そして、なぜ、その花言葉を託したか。
「そなたと共にこの花を見られたかなりの幸運に、感謝しないといけないな」
どうやらジュリアスも、カティスの言葉を思い出しているらしい。
ええ本当に、とオスカーはうなずいた。
風向きがまた変わり、辺りに雨粒がパラパラと落ち始めている。
そろそろ戻りましょうかと愛しい人に声をかけ、このひと時をいつまでも忘れないようにと、オスカーは甘い香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
